操体

操体の起源

操体の起源(そうたいのきげん)
操体の源流は、正體術(せいたいじゅつ)と言われている。正體術は、日本に古来から伝わる古武術系の矯正修復術をもとに、高橋迪雄(たかはしみちお)と、その父が体系づけたものである。端的に言えば、関節や骨格にずれや歪みがある場合、動かしやすい方に動かし、瞬間的に脱力すると、ずれているものが元に戻るという理論である。
橋本敬三医師が正體術に出会ったのは、1928年(昭和3年)、函館中央病院慈恵院で外科医となった頃のことである。高橋迪雄氏の高弟が、函館で正體術をやっており、身体が弱かった友人の父の健康が回復したのがきっかけであると言われている。後に、橋本敬三医師は三浦寛に「痛い事をせずに良くなるなら、そんないいことはないと思った」と言ったそうである。
なお、三浦寛が弟子入りした頃の橋本敬三の「操体」は、正體術に酷似していた。正體術が徐々に操体に変化していったわけであるが、動きの方向性が

可動域極限まで(運動分析)正體術
やりやすい方、動かしやすい方(運動分析)第一分析
感じがいい方(感覚分析)第一分析

と、変化していった。

なお「操体」という名前がついたのは、ずっと後の事になる。
1974年(昭和49年)、橋本敬三医師は、医学専門誌に自分が発信し続けたもの(ボディの歪みと病気の関係性について)が、医師から反応がなかったことで、断筆を宣言するが(それまで橋本敬三医師は、医師向けに情報を発信していた)、農村文化協会の月刊誌「現代農業」に、健康についての連載を始めることになる。「健康は自分で守る」というのが、当時の連載の依頼タイトルであった。経緯としては、橋本行生氏がもともとこの連載を担当しており、二回目の連載の題名が「腰痛は自分でなおせ」この中で行生氏は「仙台の橋本先生御創案の操体」自ら行い、村人の腰痛が「手品のようにその場で治った」体験を書いていたこの頃から「操体」(からだを操る)という言葉は使われていたようである。この記事は非常に注目を集めたが、その後、橋本行生氏が九州に移動したため、連載を橋本敬三医師が引き継ぐことになった。この連載は昭和51年まで21回に渡って続いたが、人気が高かったため、昭和51年1月号から、図解版の並行連載が始まった。この時のタイトルが「操体法のすすめ」。当時の編集者栗田庄一氏は「操体よりも操体法、のほうがゴロがいいので、操体法でいいか、と橋本先生に聞いたが、快諾を頂いたと言っている。しかし、当時橋本敬三医師の周囲にいた弟子達は「法」というと、何かのテクニックのようでいやだ、という声が上がったようである。
この、現代農業での二つの連載を編集したものが「万病を治せる妙療法」である。
「操体」という名称については諸説あるが。1975年(昭和50年)に行われた講習会の名称は「東洋医学研究会」となっている。この様子はNHKのドキュメンタリーにも収められているが「橋本さんのやり方」と紹介されている。
また、一説ではメディア出演の際、名前がないと困るということで「体操の反対(体操とは違うから)だから操体」と命名したという説もある。いずれにせよ、操体が先で、操体法が後になる。操体と操体法の違いは以下に述べる。

万病を治せる妙療法―操体法 (健康双書ワイド版)

操体と操体法

操体と操体法の違い。多くの方は「操体」ではなく「操体法」という認識かもしれない。前項で述べたとおり、元々は「体操の反対(体操とは違うからだの操り方)」から「操体」と言われていたが、現代農業での連載開始時に「ゴロがいいから」という編集者の意見で、「操体法」とされた。この時、橋本敬三医師の周囲にいた者達は「操体はテクニックではない。○○法、というとテクニックのようだ」という声があがっていた。その後、操体と操体法の違いは、以下のように設定された。「操体法」というのは「操体」のほんの一部であり、橋本敬三医師が行っていた臨床(治療)の部分を指す。多くの人は「操体法」(やり方)だけを知りたがるが、操体(橋本敬三の哲学や死生観、理論などを含めた全体を知らねば「法」(やり方)を活かすことはできない。
また、図の下にも記載があるが「法」は、天然自然の法則の「法」という説もある。操体法は、操体の理論があってこそ、操体法として成り立つ。